連載 No.36 2016年08月14日掲載

 

小串鉱山の廃墟で過ごした夏


廃虚などの撮影場所を見つけるのは意外と当てずっぽうだ。

古い地図に鉱山、あるいは「××跡」とあるのを探して、取りあえず行ってみる。

インターネットなどなかった1980年代、そんな行き当たりばったりでも、さまざまな被写体に巡り合うことができた。

逆にネットが普及した今は、多くの人が訪れるようになったため閉鎖や取り壊しが進み、

撮影できる場所は少なくなったように感じる。



温泉で有名な草津周辺には、かつてたくさんの硫黄鉱山があったが、そのほとんどは昭40年代に操業を停止し、

学校や病院などの町の痕跡と、さまざまな遺構が残された。



東京から200㌔ほどの距離だから、夜仕事が終わって出掛けても、明け方から撮影できる。

20代の忙しい時期ではあったが、夏場はよく通った。

2千㍍近い標高で夏でも涼しく、車内泊やテントでも苦にならなかった。

いくつかの硫黄鉱山の中でも、特に不便な場所だったのは今回の小串硫黄鉱山跡だ。

鉱山跡を見下ろす長野・群馬県境の毛無(けなし)峠までは細い舗装路があるが、車を降りて30分ほどは歩くことになる。

当時は林道も整備が悪く、落石や土砂崩れで不通になると2時間以上歩くのが当たり前だった。

シカやカモシカといった動物を見掛けることが多かったが、

ある日、以前ここで暮らしていたという何組かの家族連れに出会った。



彼らから、昔ここで200人以上が亡くなったという山津波の話を聞いた。

37(昭和12)年のことだからその当時で50年前だ。

話を聞きながら、その日がお盆だということにやっと気付いた。

仕事柄、盆休みや連休には縁がなかったからだ。



そして、そんな事故のあった場所で、しかもお盆に野宿していることもあり心霊的な不安を感じ始めたのだが、

考えてみると前夜も含めてここではいつもぐっすり眠れていた。

とても気持ち良く過ごせ、目を覚ますと美しい霧の中にマーガレットが咲いていたり、

どちらかというと自分はやさしく受け入れられていると感じていた。



その場所との相性みたいなものだろうか、まったく逆の経験もある。

別の鉱山跡で車内泊したときは、悪い夢ばかり見て何度も目が覚めた。

朝まで我慢しようと思ってまた寝るが、そのたびにうなされる。

あまりに寝苦しいので真夜中だが仕方なく移動しようと思い、時計を見ると寝てから10分もたっていない。

さすがに何かの警告だと感じてすぐに移動した。



今回の写真は87年、小串鉱山の変電施設跡で撮影。

壁の染みがろうそく、ドラム缶が祭壇のような印象だ。

6×6のカメラで、カラーとモノクロの両方を撮影した。

カラー版はこの写真を含め、96年に1年間、文芸誌「三田文学」の表紙に使用してもらった。